本園は樹齢300年を超える古木に囲まれ深山幽谷の趣があります。その巨大な古木の木々は外部を遮蔽し、本園は宇和島の街中に在りながら、独立した静寂の空間を造り出しています。
自然と日本庭園が見事に融合した、やすらぎの空間となっています。
2011年04月11日
天赦園の沿革
【設立者】
宇和島藩七代藩主
伊達宗紀
【設立】
1866年(慶応2年)
【設立の所以】
七代藩主 伊達宗紀が退隠の場として設立
【園名の由来】
伊達宗紀が退隠するにあたり、その心境を伊達政宗の退隠時の心境に重ね合わせ、退隠のとき政宗が詠んだ漢詩から引用し、天赦園と命名しました。
馬上少年過 世平白髪多 残軀天所赦 不楽是如何
(馬上に少年過ぎ 世は平にして白髪多し 残軀は天の赦す所 楽しまずんば是を如何せん)
設立者である伊達宗紀は、退隠の後も八代藩主 伊達宗城、九代藩主 伊達宗徳の背後より真の実力者として国事に励み、維新四賢公の一人と云われた伊達宗城をして、後顧の憂いなく維新の大業に参画せしめました。
また、本園では西郷隆盛、大村益次郎、高野長英等勤王の志士との会見が行われ、幕末〜明治に及ぶ宇和島藩の国事斡旋の源を発したところでもあります。
宇和島藩七代藩主
伊達宗紀
【設立】
1866年(慶応2年)
【設立の所以】
七代藩主 伊達宗紀が退隠の場として設立
【園名の由来】
伊達宗紀が退隠するにあたり、その心境を伊達政宗の退隠時の心境に重ね合わせ、退隠のとき政宗が詠んだ漢詩から引用し、天赦園と命名しました。
馬上少年過 世平白髪多 残軀天所赦 不楽是如何
(馬上に少年過ぎ 世は平にして白髪多し 残軀は天の赦す所 楽しまずんば是を如何せん)
設立者である伊達宗紀は、退隠の後も八代藩主 伊達宗城、九代藩主 伊達宗徳の背後より真の実力者として国事に励み、維新四賢公の一人と云われた伊達宗城をして、後顧の憂いなく維新の大業に参画せしめました。
また、本園では西郷隆盛、大村益次郎、高野長英等勤王の志士との会見が行われ、幕末〜明治に及ぶ宇和島藩の国事斡旋の源を発したところでもあります。
posted by 天赦園管理人 at 17:54| プロフィール